japan-tama’s diary

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エンジニア武勇伝?

いろいろあったことを書き留めました。
(普段は家庭菜園の話題ばかりのブログです。)

◇手をかけて作ったシステムが失敗プロジェクトと断言され、社員総会で名指しで責められたことがある。パッケージソフトなのに発売はされず、ユーザーはモニター協力していただいた2社のみ。ずっと終電で帰っていた。
教訓:長期間結果(商品出荷)が出ないプロジェクトは失敗プロジェクトとなる。
心身のダメージは大きかった。未だに尾を引いている。

◇有名商品のシリーズ物のテストをした。Vistaが使われ始めの頃。バグをせっせとあぶりだしたがかなり修正が却下された。画像の編集の取り消し機能で直前の状態に戻らず、かといって取り消しが失敗したとも表示されず編集後と編集前どちらでもない状態になるというのがあった。これが放置されるとは。その年の発売後、翌年は開発打ち切りとなってしまった。自分自身も一旦契約続行になった約束が、反古にされた。お世話になった社員さんたちも昨年会社を辞められた。詳しい事情は知らないが、外資なので勝手に想像はする。


コンサルタント会社のもとで、外資保険会社での仕事。会議室に詰め込まれ自分のスペースは肩幅のみ。会議用の長机なので引き出しは、なし。1時間ごとに進捗報告。仕事のペースが通常の3倍以上。常に臨戦体制。たまらず1ヶ月でやめました。テストシナリオのダメ出しは的確だった。2度とこの会社で働くことはあるまい。隣の席の女性に「奥さんを大事にしてね。」と忠告される。


☆カラオケ店用POSのテスト。テストで検出したバグはなぜか紙で提出。動作停止、明らかな誤りなどを除いて、多くは握りつぶされる。上のフロアに受け入れテストを担当する会社があり時々、怒鳴り込みにあう。開発会社は途中でいなくなってしまう。契約時に話のない夜勤を頼まれるが、出勤すると何度か、「今日は、なしね。1時間だけは出勤としてつけといていいよ」という目にあう。あてがわれた机の引き出しは鍵がないのか開かなくて使えなかった。苦情を部長に言っても放置。何の仕事をしているのかさっぱりわからない人が別会社から来ていて、断りもなく机を奪われる。理由もなくなぜか威張っていた。散々です。同時に入った人も次々と辞めて行った。
「新宿の女」(宇多田ヒカルのお母さんが歌った)の歌碑がある神社や箱根山に昼休みよく散歩をした。


9時5時の仕事。最後の数カ月のみ残業が可になったが、給料が安く大変だった。5時で帰れる仕事は初体験だったため、こんな明るい時間に帰ることが出来るのかと新鮮だった。5時帰宅の電車帰りの人が多いのも意外だった。この頃仕事に対する気力が最低で、9時5時でやっとこなせた状態。パッケージソフト製造2本に関わりそれなり充実感はあった。


◆最寄り駅より数駅の仕事。比較的簡単な単一の仕事。マネージャーよりシステムの最適化をやっていいと言われていたため、ボトルネックとなっている処理のスピードアップをどんどん図っていった。数10倍速くなった処理もあった。ここまではよくあること。辞める直前に手をつけた処理が、テストを繰り返すと正常に動作しないことに気づき、元に戻す。冷や汗をかいた。(テストは、とことんやり通せ?)


◎自転車で20分、歩いても1時間かからずたまに歩いて通勤。ある程度慣れたところで、前任者が辞め数カ月放り出されたプロジェクトを引継ぎも無しに任されそうになり、会社の体質が信用出来ず辞めた。直前に、マネージャーも怪しい解任劇の後、解雇された。仕事中にもかかわらず、プレハブの事務所の改装工事が連日行われ、工事の音がガンガン響く。


◇一度だけ残業代の出ない会社に勤めたことがある。残業代は一律手当(みなし残業)として確か4万円だけ出るというもの。よっぽど相性が悪かったのか試用期間で肩たたきにあう(履歴書に載せられない)。大きな墓地の側。おしゃれな街並みを通りぬけ通勤していた。

現在の仕事中の現場でも、残業手当が出ない会社の人達がいる。かわいそう。


★そういえば残業のうち一定の時間だけ残業代が出ないという所も2度あった。定時後の30分間そして後は2時間おきに30分間は無給とか。契約前にはこれらの話を隠していて、仕事開始後に「実は...」と、この話を持ち出される。これはフェアではない。仕事前の面接時には、残業代が全て出るか、不都合な隠された事実はないかを確認するようになった。


▽保険会社での仕事。簡単な修正でもレビューを繰り返す。手間の割には実質的な仕事量は少なく充実感は乏しい。指示されたことだけをやる。かつて働いた現場のうちで一番頭を使わなかったかもしれない。グループウエア上での開発なので特殊な世界だった。インターネットが使えないので調べ物ができない。ビルの入場も飛行機の搭乗の様に手荷物検査があった。


◆部長自らが社内の吹き溜まりと言っていた。中国人、うつ病にかかってリハビリ中の人、かつて見たことがないタイプの女性など。淡々と一人で仕事をこなす。朝のラジオ体操、昼休みが45分だけなど他にないユニークさがあった。社内で使用するwebアプリ。一応の完成とともに去る。たまに徒歩で自宅まで帰る。1時間20分。季節の移り変わりと共に、明るいうちに歩ける距離が伸びていった。ほぼ定時で帰る。契約時に残業はあると言っていたが、実際はなかった。

言語、開発環境は記憶しているが、もはや業務内容を何も覚えていない。


△客先の研究所でリリース作業。その日は確認作業で手間取り、最後までいた責任者も自分を残して帰っていった。入場管理システムも含まれているためいろんな部屋に行かなきゃならない。入ったことのない部屋に足を踏み入れると、行きはよいよい帰りは怖い。ロックがかかって戻れない。しかも灯りが灯かず真っ暗。閉じ込められた。誰かか部屋の外を歩いているのを窓越しに見つけ、身振り手振りで窮状を訴えるも、素通りされる。内線を見つけ連絡。守衛さんに助け出される。トホホ。17年前にもなるが、いつまであのシステム(UNIXMS-DOS)は使われたのか。気になる。UNIX部分をOS-2に移植したがまるっきり動作が遅く使い物にならなかった。


vistaでの動作確認。vistaになってAPIの内部アーキテクチャーが代わり、製品の要求を満たす性能を引き出すことができない。その時点では検証の結果は、その結論を出しただけだった。それ以上はどうしようもない。3年前のことだったが、今では状況は変わったのだろうか?勤務先のビルは入場に指紋認証が使われていたが、感度が鈍く、いつも認証OKとならず焦った。


ハンバーガー最安値59円の頃。正社員だが社外の現場に派遣され、現場の切り替え時期などは自社に戻っていて、昼休みに大きな川のほとりを散歩。時にハンバーガー2個を買って食べていた。あちこちにブルーテントがあった。(その後、地元の川べりでも増えた)自社内では全く仕事はなかったが、自分の机は確保されていた。


バブル崩壊の頃。仕事が激減し何段階も肩たたきが行われ、自分も仕事の完成と共に解雇。その後ハローワーク通い。長男が幼く、子守をしていた。今から思えば希望もあり、のんきな時代だった。
翌年、資格取得の試験にたてつづけて合格。経験は少ないが、頭は今より冴えていたかもしれない。(その後は何度受験しても不合格...)


最後に:
業界に入って20年。
(その直前に禁煙。その後は1本も吸っていないはず。)
20年のうち失業期間は1年。
モノづくりは楽しい。
仕事に応っての希望は、人に使われ続け、喜ばれるシステムを作りたい。

(終わり)


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